木造住宅専門|伝統構法・板倉造りの家・木組みのすまいの事なら東海林建築設計事務所へ|愛知県名古屋市・春日井市で新築、増改築、古民家再生住宅の設計を行なっております。

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プロフィール

代表 東海林 修 木造住宅専門と言うまでの経路と理由

  • 建築家としての経路
  • “木造住宅専門”と言える理由
  • 活動・復旧活動・プロジェクトについて
  • OFFの私は、ダイビングが好き

私は、1954年(昭和29年)1月1日に山形県飽海郡平田町で東海林登の次男として生まれました。
何故元旦なのか?いまだにナゾです。平田町立南平田小学校に入学し、南平田中学校に順調に進みました。
中学校では野球部(もちろん軟式)に入部。
キャプテンとして1番バッターのサードの守備でした。中学校後半に巷のエレキブームに乗ってしまい、エレキバンドを悪友4人で結成しました。
当時はエレキは不良のレッテルを貼られていましたので「チョイ悪中3」だったと思います。
そう言えば、中3の時は生徒会の副会長もやっていました。

建築家としての経路。

工業高校の建築科で得た、木材や構法の知識。

高校受験の時、近所の先輩(高校生)がカーキ色の袋に入った「T定規」を持ち歩く姿に憧れ、入学したのが山形県立鶴岡工業工業高等学校建築科でした。
1969年昭和44年当時では、県内唯一倍率2倍を越える難関だった記憶があります。
高校時代は弓道部に所属し、そこでも部長をやっていました。高校のクラスは40人の1学年1クラス、ほとんどが男子(建築科はクラスに1人女性がいましたが)で生くさい学校でした。
弓道部は他校との合同練習の機会があり、たくさんの学校から女子生徒が来るはでやかな武道館での練習は何よりの楽しみでした。同時に本格的に建築の勉強をスタートして行く事になります。

工業高校では、建築の術というものを学びました。そこでは、実際の木に纏わる話や、構法についての具体的な知識などです。
高校を卒業する時はあたりまえの様に18才です。
自分の一生の進路を決めるべき余裕はありませんでした。
決める事から逃げる様に大学受験を決めた記憶があります。

1972年4月に名城大学理工学部建築学科に入学しました。はじめて故郷、山形を離れての一人暮らしがはじまっていきます。

その判断が私の人生での最大の決心だった様に思います。自分の方向性や建築感は、恩師との出会いが最大の影響と思います。

建築家としての憧れと、大学での出会い。
恩師との出会いが私の建築家人生を決めた。

大学に入ると同時に『建築家として独立する』と心に決めました。
建築家としての“独立”が自己の表現だと思い、その“独立した建築家としての立ち位置”に大変憧れていました。

私の所属していた大学研究室の講師は、牛山 勉(うしやま つとむ)先生という方で、住宅設計に携わっている人なら知らない人はいないと言われる有名な方でした。
授業はとても面白いもので、建築家としての憧れもありますが、人が住むことを前提に創られる住宅としての設計感覚は、ここで養われたのかもしれません。自由で、とても感性を大切にする先生でした。
この大学で沢山の友人と、諸先生に出会い、のちの“恩師”と出会うこととなりました。

建築事務所にて多くのことを学び、独立へ。

就職先は牛山先生からも御紹介いただき、住宅デザインを中心に行なっている神谷 義夫氏の事務所へ入る事が出来ました。

神谷義夫氏は、建築家としてディティールや納まりの事を良く言われました。
先輩所員と最初に担当したすまいが建築雑誌に掲載された事も励みになりました。
5年半 神谷義夫氏のもとで勉強させて頂き、独立したのが28歳の時です。

これからも続く、建築家としての人生。
いつかは恩師を乗り越えたい。

恩師への想いが強くなったのは独立してからだいぶ後になります。もちろん当時から想っていましたが(笑) ときどき還暦のお祝いや、日本中に散らばったお弟子さんが集まり、お祝い事をすることがあります。そこで、いつも師匠の昔の作品をスライドショーで見させていただくのですが、私が事務所に入る前の作品から一貫して「本当に美しい」と感じます。古くからある建築ですが、やはり良いものはいつまで経っても良いものです。

恩師への想いから、いつかは乗り越えたいと考えています。
それだけ素晴らしい、美しい建築なんです。

木造住宅専門と言える理由

20年以上も前の事です。
ある日お医者様と会う機会があり、ふと感じたのです。

お医者様は、内科・外科・小児科等と分かれています。おなかが痛ければ内科へ、怪我をしたら外科へ行きますよね。各々に強い分野のお医者様がいる科へ行くのが普通です。
元々彼らははじめに医学全般を学びます。その勉学の中で自分の道(分野)を決めると言います。

建築の世界も同じ事が言えると思います。
建築を学ぶ者は、木造も鉄筋コンクリートも一般的に学びますが、そこで得意・不得意が分かれます。

そんな中、マンション設計の依頼が来ました。もちろん仕事としての設計なのでしっかりやらせて頂きました。マンションの事は正直よく分からなかったのです。そこで、マンションに詳しい先輩に連絡をとり、何度も聞いて仕事をしました。
その時の、人に聞きながらやろうとしている自分の姿に疑問を感じました。彼はマンションが得意で、私は不得意。コンクリートの事は分からないけど、木造の事だったら誰にも負けないぞ。と、その時はっきり分かりました。それが全てであり、木造住宅の専門になろうと決めた出来事です。

木造住宅専門で行くと決めた。
「しまった」と思った事は一度も無い。

『木造住宅専門』でいくという事への後悔は一度も無いです。
それは、山形での高校時代に学んだ「木材」に対する正確で細やかな知識が自信にも繋がりましたし、なにより木造に特化することで学ぶ範囲が絞れ、木造に纏わる見聞をより深くすることができます。

仕事の100%の時間を、より良い木造住宅への追求に使うことが出来る上に、提案時に説明を細かくできるようになりました。
何十年と住まう家です。安心して住んで頂ける家を提案したいですね。

心象風景から建物が作られるのなら、木造住宅を創っている自分はとても自然なことだと思う。

建築家とは、基本的に生まれた環境や育ちの影響で物を創っていると思います。
それが心象風景です。その心象風景が物を創っていると言われます。
山形の家は古い木造住宅で、土間がある古い家でした。その点からしても、同じような住宅を自ら求めている節も時折感じます。

活動・復旧活動・プロジェクトについて

現在、宮城県の気仙沼にて2棟目の復興住宅を建設中です。

その他、活動・プロジェクトについて

板倉の家

OFFの私は、ダイビングが好き

名古屋ダイバーズクラブ
代表

1977年からスキューバーダイビングを始め、文字通り海に“溺れて”いきました(笑)

24歳の頃に、ダイビングクラブ『名古屋ダイバーズクラブ』を設立して、33歳の時にインストラクター免許を取得。設計事務所を独立してから5年目の頃です。
ですが免許取得には1週間の集中講義を名古屋・沖縄で受講しなければなりません。
当時は仕事が軌道に乗り始めた頃ですから、その1週間を空けるということは大変でしたね(笑)

名古屋では受講生がたちが寝ている深夜にこっそりと抜けだし、事務所に戻って仕事をこなすというアクロバットをやってしまいました。
若いからできたことでしょうね。

発足して30年以上が経つ名古屋ダイバーズクラブは、「楽しくなければ遊びではない」をモットーに運営する商売抜きのアマチュアダイビングクラブです。

そこには気の置けない仲間が待っています。言葉のないスポーツですので、信頼感がないと一緒には行けません。そんな仲間達と海の浮遊感の中で過ごすことには、言い知れない楽しみがあります。
これからもそんな時間を大切にしながら過ごしていきたいですね。